こちらをご覧ください。1992年から現在まで使われているニュージーランドの5ドル札です。描かれているのは、ニュージーランドの誇る登山家・冒険家、そして慈善家でもあったエドモンド・ヒラリーです。
エドモンド・ヒラリーは、1953年、世界最高峰のエベレストに、シェルパ(ネパールの少数民族、ヒマラヤでガイド/荷物運びを担当することも多い)であるテンジン・ノルゲイと共に人類初登頂しました。
しかし、ヒラリーが「私の生涯最高の冒険だ」と語るのは、エベレスト登頂ではなく、1977年に取り組んだ、全ガンジス川をジェットボートで遡り、さらに麓からヒマラヤの山頂へ向かう旅なのです。
この旅は、実は、妻と娘を亡くしたばかりのエドモンド・ヒラリーと息子ピーターの、心の傷を癒す魂の旅でもありました。
ニュージーランドの遊び方を1000個見つけるブログ 68/1000
Kia Ora! うちだいずみです。
ニュージーランドの遊び方を1000個見つけるブログ、今回から2回に渡って、2019年10月末、ニュージーランド全国でリリースされたばかりの映画『Hillary – Ocean to Sky (ヒラリー 海から空まで)』を、監督マイケル・ディロンのインタビューも交えてご紹介しましょう。
エドモンド・ヒラリーとはどんな人?

エドモンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイ。Photo from the collection of John Henderson
エドモンド・ヒラリーは、タイム誌の「20世紀で最も影響力のある100人」に選ばれたほどの世界的な偉人。エベレスト登頂直後に英国女王勲章のナイトの勲位を受け、30代にしてSir(サー)と呼ばれました。
しかし、ヒラリー自身は 「僕は称号なんて認めたことはなかったし、自分が受位するなど想像もできなかった」と語っており、死ぬまで「エド」とカジュアルに呼ばれる方をずっと好んでいました。
彼の慎しみ深く気さくな性格は多くの人に愛され、ニュージーランド国内では、リーダーズ・ダイジェスト誌の選ぶ「一番信頼のおけるニュージーランド人」に何年も選ばれ続けるほどでした。
ヒラリーは1919年、オークランドの養蜂家の長男として生まれました。もともとは体が弱かったのですが、蜂の巣箱を運ぶうちに足腰が鍛えられたといいます。
登山との本格的な出会いは16歳のとき。高校の旅行で北島ルアペフ山に登り、山登りに、そして冒険に魅了されます。
第二次大戦中は空軍の航空士としてフィジーやソロモン諸島に従軍。
戦後、ニュージーランドのヒマラヤ探検隊に選ばれ、1951年からは英国隊に参加しました。

エドモンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイ。
そして、1953年。人類の悲願であったエベレストの初登頂に成功し、世界的に知られるようになります。登頂後、山を下りてから語った言葉が、”We knocked the bastard off.” (あいつをノシてやった)。その「悪態」が世界中に報道されて、ヒラリーのお母さんを嘆かせたというエピソードが残っています。
その後12年間の間にヒラリーはヒマラヤの他のピークを10カ所も登ります。謎の生き物イエティを探して、何ヶ月も山を歩き回ったこともあります。
南極へも何度も探検に出かけました。1958年、英国南極横断隊のサポート隊として参加したにも関わらず、イギリス本隊を出し抜いて、農業用トラクターで「世界で初めて乗り物で南極点に到達」したこともありました。
1985年には、雪上飛行機で北極点に到達、これにより、はじめて北極点・南極点・エベレスト山頂の三極を制覇するスリー・ポール・チャレンジを達成しました。この時はなんと、人類として初めて月面に降り立ったニール・アームストロングと一緒に北極点まで行く、という豪華なおまけ付きでした。
1985年から1989年までは、駐インド高等弁務官を務めました。これは、彼にとって「初めてのちゃんとした仕事」でした。
ヒラリーは、2007年、87歳で最後の南極探検をしたのを最後に、生涯に渡り数々の大冒険をしました。2008年、88歳で亡くなったときには、国葬に伏せられ、お別れをしようというニュージーランド人が長い行列を作ったのです。
ヒラリーの慈善事業、そして信じがたい大悲劇

妻のルイーズと、長男のピーターとともに
ヒラリーは、ただの冒険家だったわけではありません。
1960年、エベレスト登頂からしばらくして、ヒラリーは以前からの夢であったネパール山岳地帯の人々を支援するヒマラヤ基金を創設します。以降、ヒマラヤ基金は、学校を26校、病院を2院、さらに建設資材を運びやすくするための飛行場など、健康と教育、豊かな暮らしのために生涯をかけて尽力します。
ヒラリー自身も、「シェルパのみんなと学校や病院、橋などを作る活動をしたことで、私のことを覚えていてほしい。私の関わった様々なことの中で、これこそが、最も価値あることだったのは、疑いようもない」と晩年語っています。
ネパールの人々は、ヒラリーに心から感謝しており、「ブラ・サヒブ=大きな心の持ち主」と呼んでいます。ヒラリーは、イングランドで最高の栄誉と言われるガーター勲章を始め、世界各国から数々の称号を得ましたが、このブラ・サヒブという名前こそが、彼の一番の栄誉です。
しかし、ヒラリーの人生は、順調なことばかりではありませんでした。それどころか、死にたいと絶望する日々が長く続いたこともあったのです。
それは、1975年、愛する妻と末娘を、飛行機事故で一度に失ったからです。
ヒラリーには妻のルイーズとの間に息子のピーター、長女サラ、次女ベリンダという3人の子供がおり、愛に満ちた家庭を築いていました。
1974年、ヒラリーはカトマンズからおよそ270km東に離れた山岳部の村ファプルの名士に請われ、病院を建てるために滞在することに決めました。そのために、家族(妻ルイーズ、大学生ピーター、高校生ベリンダの3人。長女サラはオークランドにいた)をカトマンドゥに呼び寄せ、自分はファプルに住んで、飛行機で行き来をすることになっていました。
運命の3月31日。ヒラリーは、妻とベリンダに、病院の建設進行状況を見せようと飛行機を手配していました(ピーターはインドを旅していた)。ベリンダは、普段から「小型飛行機は好きじゃない」と言っていたそうなのですが、ヒラリーは気にしたことはありませんでした。
この日の朝、ヒラリーはファプルの飛行場で、8時に到着する予定の飛行機を待っていました。しかし、時間になっても、飛行機はやってきません。
不安を覚えながら待ち続けるヒラリーの元へ、3時間後にヘリコプターがやってきました。妻と娘の乗った飛行機が、カトマンドゥの飛行場を離陸直後にクラッシュし、全員が死亡したという知らせを届けにきたのでした。原因は飛行機の整備不良で、パイロットがするべきことをしていなかったためでした。
ヒラリーは悲しみの底に沈み、また自責の念にかられました。事故から5日後に公開した手紙には、「私の唯一の望みは、2人の元に行くことです。もし、今以上の痛みと苦しみを友人たちに与えないですむ方法が見つかるならば」「死ぬのは本当に簡単なことですが、私がこれから生きていく勇気を持てるかどうかは、神のみぞ知ることでしょう」と、感謝の言葉とともに、痛烈な悲しみと、死を望む言葉も書かれていました。
この時から、ヒラリーは鬱と闘いながら暮らすことになりますが、2年後、ルイーズと一緒にしようと話し合っていた「インドの海岸からガンジス川を遡って、ヒマラヤの山頂まで行く旅」を、息子ピーターを伴って実行することにします。
この旅が、今回、当時の映像を新しくデジタルリマスターし、数多くのインタビューを交えて作られた映画『Hillary – Ocean to Sky』です。
それでは、映画自体については、監督のインタビュー等も交えながら、次回またご紹介しましょう(→リンクはこちらです)。
今日もお読みいただいて、ありがとうございました。
参考サイト
トレイラーはこちらです↓
【こちらのサイトもよろしければご覧ください】
100 reasons the world loved Sir Edmund Hillary
‘Dishevelled’ pilot who caused Hillary tragedy should have been barred
New Sir Ed Hillary documentary “From the Ocean to the Sky”
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